仙台公演 シゲさんレポート
2013年5月29〜30日/6月1日
もともとテレビは見ない方で、(テレビの仕事をしてるので、あまり声高に言うもんじゃないと思いながらも・・・)最近は更に見なくなった。そんな中で、『大改造!!劇的ビフォアーアフター』という番組をよく見る。番組の内容は、ワケあり物件を、その道の匠がリフォームをする番組で、築年数が古かったり狭かったりで使い勝手の悪い家が、便利でキレイになり、同じ敷地なのに今までよりも広く感じたりして、リフォームを(ちゃんとお金を払って)依頼した家族が、その改造っぷりに驚いたり、もちろん喜んだりする番組だ。
登場する一級建築士の匠たちは、もちろん家をリフォームするのだが、そこには匠の技やこだわりがあって、古くて狭くて不便だった家が『なんということでしょう!』の決めゼリフ通りに、見事に新しく生まれ変わる。ものすごくシンプルで分かりやすい起承転結なのだが、それは、(僕にとっては)オモシロイ演劇を見た後のような、爽快な気分になる。
匠が一番に考えてるのは『家』の大改造ではなくて、その先にあった『家族』の繋がりの大改造なんだと思う。『家』を使った『家族』の大改造は笑顔を生み、笑顔から生まれてくるのは、勇気とか希望だったりするんじゃないかなと思う。
きっと演劇にも、それに似たチカラがあると思っている。
ある番組で「思いを伝えるために俳優はいる。」と、高倉健さんは言った。舞台【イシノマキにいた時間】でも、思い(想い)を伝えられればと思って始めた。その想いは、ボランティアの人たちの想いからスタートし、舞台を重ねるうちに、石巻公演で背中を押してくれた石巻の人たちの想い、この舞台に関わってくれた全国の人たちの想い、そしてこの舞台を見てくれた人たちの想いも、次に公演する地の人たちに伝わればいいなぁと思っている。
そして、もし自分たちに伝えるための匠の技があるとしたら、それはやっぱり『芝居』であり『笑い』なんだと思う。見てくれた人たちに笑ってもらうコトなのだと思う。それは、あの地震を体験し被災された人であれば、より笑ってもらいたいと思う。時間がかかるだろうし、時間がかかっても笑ってもらいたい。
この舞台を始めて1年半、震災からは、アッという間に2年3ヶ月が過ぎた。芝居というカタチになる前に、新宿のロフトプラスワンという場所で、2011年の6月に伝えるためのトークライブをした。
その時から見続け、応援し続けていただいたKHB(東日本放送)の安達さん、そして、東京での再演や、2012年6月の石巻公演など、何度も舞台に足を運んで下さった佐藤さんが、今回の仙台公演の先頭を走って、KHBの社内の人たちを少しづつ巻き込んで、この公演は実現した。
安達さんと佐藤さんの口癖は「出来るか出来ないかじゃなくて、やるかやらないかなんですよね。」だった。
仙台では、素敵な空間の『せんだい演劇工房・10−BOX』と、これまでで一番大きな400人キャパの会場『イズミティ21ホール』の2ヶ所だったコトで、大丈夫なのか?という不安があった。特に、『イズミティ21ホール』より後に、追加公演というカタチで決まった『せんだい演劇工房・10−BOX』での公演は、市街地からだいぶ離れた場所にあったので、本当に見に来てくれるお客さんがいるのか心配だった。
しかし、その不安は、『10−BOX』のスタッフの皆さんと、またまたヨッさんの研修生時代の同期である庄司真理子ちゃんの熱くて、なにより明るいキャラクターで吹き飛んだ。そう、ヨッさんの同期ということは、新潟・上越高田公演の実行委員長であるマル丸山、熊本・八代公演の実行委員長である中村章二とも同期である。この真理子ちゃんのスーパーぶりは、やっぱりヨッさんから紹介してもらおうと思うので僕からはひとつだけ。
新潟の上越高田公演、熊本の八代公演、そして仙台公演。これらすべての公演終了後に、ヨッさんの同期は号泣してた。今の時代、なかなか大人が号泣することはない。でも、号泣である。ヨッさんも含めると4人の号泣だ。
仙台公演を終えた翌日、キャスト3人と、音響スタッフの五井ちゃんの4人で石巻へ向かった。五井ちゃんは、初めての石巻だった。
日和山公園、南浜、石ノ森章太郎漫画館、女川、そして鹿立浜、福貴浦と回り、石巻で1泊した。次の日には、石巻市内から45分ほど車で走った場所にある追分温泉に向かった。芝居にも少し出てくる場所だ。震災がなければ、ここに来ることもなかっただろうし、きっと知ることもなかったんじゃないかと思う。自分たちが伝えているのは『あの頃の石巻』と『今の石巻』である。
追分温泉にいた時間は、とてもゆっくり、そして優しく流れていた。ここも避難所として使われてた場所だが、今は、正直、その風景は感じられないほど穏やかだった。その後、雄勝や船越に行くと、やっぱり悲しい風景が残っていて、あの頃の想いを感じて、そして思い出す。
伝えなければならないのは、その両方なのだと思う。
仙台公演 よっさんレポート
仙台在住の彼女は、震災当日も仙台にいて被災しています。当時仙台の友人は彼女しかいなかったため、同期のみんなで何度も電話やメールをしても繋がらなく、心配していました。そして震災から一ヶ月くらいして彼女から皆にメールが来ました。「心配かけてごめんね。私は大丈夫です。無事の返信をしたかったのだけど、それどころじゃなくて。。。」確かにそうだと思う。それどころじゃなかったんだと。。とにかく無事で本当に良かったです。
彼女の返信の最後にこう書いてありました。「一番は、現実を見て欲しいことかな。日本の街が無くなった現実。そこから、どうしたらいいのか。。感じていただけたら。。」と。。。ボクは、そのメールから少し経った2011年のGWに、石巻に車で物資を運びに行きました。その時は物資を渡すだけで何も力になれず自分の無力さが情けなく、石巻を後にしたのを覚えています。そしてその帰りに仙台に寄って彼女と再会をしました。相変わらずのふくよかボディで安心したのを覚えています(笑)本当はものすごく大変なのに、彼女はボクの前では相変わらずパワフルなオネエチャンでいてくれました。その夜は、表現者としてのボクたちは、これからどうしたらいいのか?どうするべきなのか?どうしていくのか?を話し合いました。
彼女は「お花畑プロジェクト」というボランティアグループを作り、仲間と一緒に子供たちに沢山の笑顔を届けるために、絵本の読み聞かせや、歌や踊り、紙芝居などをしに避難所や仮設住宅、保育園、幼稚園を廻ったりしています。自分だって被災しているのに。。。
初めて石巻公演が実現した時も、鹿立浜の東浜小学校の体育館まで仲間を連れて観に来てくれました。その時「この作品を、仙台の人にも観て欲しい。そしてもし仙台でやれるコトになったら、全面協力するからね!」と云ってくれました。その約1年後に仙台公演が、KHBさんの主催で決定し、彼女は今回の追加公演を含む10-BOXとイズミティー21ホールの仙台公演期間中は全部予定や仕事を空けてくれて、手伝ってくれました。受付から仕込み、バラシ、そしてお手伝いさんの派遣まで。。しかもそれだけじゃなく、お客さんも沢山呼んで来てくれました。本番数日前までガラガラだった追加公演の10-BOXも、初日には両日とも満席の超満員でした。
最終的にはイズミティー21ホールも完売になり、テレビでのマンパワー、主催のKHBさんと地元演劇のマンパワーのマリコのお陰で公演は大成功しました。
彼女は打ち上げで「石倉くんたちがこの作品で仙台でお芝居する時に、絶対にお客さんが少ない所でやって欲しくなかったから。。。」と、云ってくれました。嬉しかったです。ボクらの『伝える』という表現者の出来るコトに全力で協力してくれたことに。マルも章二もマリコも、演劇青春時代だと云いますか、その当時、ひとつの目標に向かって一年間毎日汗水流して稽古していただけあって、いまだに仲間意識は強いものなのですね。イイ仲間を持ちました。そして今回もまた仲間に助けられました。20年前と変わらず、彼女は相変わらず食いしん坊でした(笑)この公演を機に、仙台に沢山の友人や仲間が出来ました。やっぱり縁に感謝です。この縁が今、ドンドン拡がって来ています。。
最後にもう一度、『いや〜。仲間ってイイですね。有り難いですね』
仙台公演 制作レポート
テレビのチカラ。そう、我らはテレビの力を感じて育った世代。仙台公演は、そのテレビを色々な角度から考える公演となった。
KHB東日本放送さん主催、仙台公演。
これまでも、各地のテレビ局の方々にお世話になってきたけれど、局が主催して下さる公演は、初めてのこと。この舞台をご覧くださった方は、ご存知の通り、ストーリーの中で、テレビ局の皆さんにとっては、耳の痛い台詞が何度となく出てくる。にも関わらず、いや、だからなのか?この作品は、全国展開の当初から各地のテレビマンにご支援、ご協力を頂いている。
テレビのチカラ。そう、我らはテレビの力を感じて育った世代。仙台公演は、そのテレビを色々な角度から考える公演となった。
KHB東日本放送さん主催、仙台公演。
これまでも、各地のテレビ局の方々にお世話になってきたけれど、局が主催して下さる公演は、初めてのこと。この舞台をご覧くださった方は、ご存知の通り、ストーリーの中で、テレビ局の皆さんにとっては、耳の痛い台詞が何度となく出てくる。にも関わらず、いや、だからなのか?この作品は、全国展開の当初から各地のテレビマンにご支援、ご協力を頂いている。
その中でも、観劇リピート数 No1だったのがKHB安達さんだった。震災3ヶ月後に新宿で行った、石巻の様子とボランティアの活動状況を伝えた、「イシノマキにいた時間」の原型とも言えるトークLIVEの時から、足を運んで下さっていた。東京再演、石巻公演、昨年(2012年)末には、年の瀬の慌ただしい中、仙台から下北沢の小さな芝居小屋に、ついに局の社長さんまで連れて。「被災地のテレビ局だから尚更、考えなければならないことがこの作品には詰まっている!」と安達さんは、いつも熱く仰ってくれ、1人のテレビマンの思いが形になったのが仙台公演であった。
この仙台公演には、3月の公演で集めさせて頂いた支援金で、86名もの石巻の皆さんを招待することが出来た。(詳しくは支援金報告へ)その石巻の皆さんからも「テレビで舞台の宣伝してたの見たよ〜」「テレビでやってるやつだから、観に行ってみよ〜って知り合い誘ってきました」などの声が。イケメンでもなく、有名俳優でもない3人の芝居に行くには、TVの宣伝は、大きな安心材料となる。我々にとっては、舞台を観る「きっかけ」の後ろ盾である。また、ボランティア活動を通じて知り合った石巻の皆さんが、3人がテレビに出ているのを喜んで下さるのも、どこか嬉しい。
そして、6月1日イズミティホールでの上演の日。とても心に残る出来事があった。
本番前のリハーサル中、花束を持ったご夫人が、お一人で劇場受付に。聞けば、そのご夫人は石巻の方で、被災し、ご親族を失い、今は仙台の仮設に入られていると。テレビで、この作品がイズミティホールで上演されると知り、福島さんに一言、石巻でのボランティア活動の御礼と、今も被災地を忘れることなく、こうして活動を続けてくれている御礼を伝えたくてと来ましたと仰っていた。花束を置いて帰ろうとされたので、シゲさんを呼びに行き、直接花束を渡してもらうことにした。シゲさんと会ったその方は、目に涙を浮かべ、当時のこと、今の心境を話して下さった。今日の舞台は、観たい気持ちもあるけれど、まだ観れないと。。。
2年が過ぎた今もなお、自分が生活した場所に怖くて戻れない人がいる。被災地のことを取り上げたテレビや本や映画や舞台を見る事が出来ない人がいる。それが現状なのだ。仙台公演のお客さまのアンケートにも、被災県の皆さんの生の言葉が綴られていた。笑えるようになった人。まだ笑うことができずにいる人。状況はそれぞれ。
そのご夫人を外まで見送りながら、この方がいつか観に来て下さるその日まで、上演を続けられたらいいなと思った。
イズミティホールの前に行われた、追加公演の10-BOXから、今回もまた強力助っ人登場!富良野演劇工場の太田工場長と舞台監督の九さんこと九澤さんがお手伝いに。
演劇人の為に、作られたスペース10-BOXに、ベテラン演劇人スタッフが居れば怖いものなし。プロミュージシャンが集まれば、さして言葉を交わさずとも、いい音が奏でられるように、この人達が集まるとあっと言う間に、希望通りの劇空間が出来上がるのだ。80人規模の小劇場と、400人キャパのホール、どちらも見事な仕事をして貰った。10-BOXスタッフの皆さん、イズミティをお手伝い下さった仙台スタッフの皆さんにも感謝。そして、前日の深夜までレコーディングというタイトなスケジュールの中、駆けつけてくださったスペシャルゲスト、吉俣良さんにも感謝。イズミティの大きなステージで吉俣さんのグランドピアノの生演奏を楽しんで頂くことができた。
「イシノマキにいた時間」という作品を長く続けていく間に、少しでも世の中が変わるよう一生懸命考え、熱い思いで動いている方々に出会ってきている。役者だから出来ること、音楽家だから出来ること。テレビだから出来ること。それぞれに、大事な役割を持っていると思う。どんな分野も、個々の集まり。1人の熱い思いは、そばに居る人を組織を大きな繋がりを変えていくチカラがあるのだ。仙台公演には、KHBの多くの社員の皆さんも来て下さり、感想文まで書いて下さっていた。安達さんの命令で(笑)。
そんな熱いテレビマン安達さんと「おむらいすファクトリー」庄司真理子ちゃんのコラボした仙台公演は、その熱が、来て下さったお客さまにも確実に伝わり、これまでのどの公演より笑い声も涙の量も多い公演だった。
入場者数 10-BOX公演 160人。イズミティ公演 400人。計560人。