紀伊國屋公演 シゲさんレポート
2015年5月25日〜27日
紀伊國屋ホールでの公演を終えて【イシノマキにいた時間】の舞台を見てくれた人が、3年半で延べ15,000人を超えた。その全ての公演が、オッサン2人とポッチャリ1人しか出てこない芝居で、セットもなく、明らかに集客力と華がない3人の芝居とは思えない公演の記録である。ただ、なんというかウレシイというのとは少し違う。
時々、振り返って考える。
今よりは若干オッサン具合が進んでいなかった頃に、2人芝居で公演した時の事、今と変わらないポッチャリ具合が加わって3人で公演した時の事、その公演を見に来てくれた吉俣さんが、「この舞台、鹿児島でやるぞ」と言って、その場で鹿児島に電話をしてくれた時の事、石巻の浜の大将に「イシノマキにいた時間を石巻でやんないでどうすんだ!」と言われて、ものすごいプレッシャーの中で石巻公演をすることになった時の事、その舞台を見てくれたオフィスキューの鈴井亜由美さんが「この舞台を是非、札幌でやりましょう。」と言ってくれた時の事・・・その後も公演した先々で「地元でやりたいです。」「公演って、どうすれば出来るんですか?」「学校での公演は出来ませんか?」と言ってもらい、実現できた事と出来なかった事があるが、人の想いというバトンが繋がっていく事を実感していた。ただ、やっぱり全国各地で公演させてもらった時も、ウレシイというのとは少し違った感覚のまま、アッという間に3年半が経って、たくさんの人の後押しを受けて『オッサン2人とポッチャリ1人』が、紀伊國屋ホールという舞台に立たせてもらった。もちろん、紀伊國屋公演がゴールではなく、むしろ色々な意味でスタートであると感じている。
3日間の公演では、芝居を終えて舞台上で挨拶をしてる時に、今までと同じように全国で公演してきた『あの頃』を振り返り、改めて15,000人の人たちに支えられ育ててもらった舞台なんだと感じさせてもらった。
紀伊國屋公演の当日パンフレットにも書いたが、2012年の東京公演後に、石巻の牡鹿半島にある東浜小学校の体育館での公演では、最前列にいた小学生たちが、田口くんの登場だけで大爆笑していたのを見て、ポッチャリというのは、こどもたちにはものすごい武器で、こどもというのはとても素直で、時に残酷だとも感じた。
2012年6月:はじめての石巻公演@東浜小学校体育館
富士宮(静岡)の『芸術空間あおき』は、自宅を劇場に改築して舞台は畳4枚分で、25人しかお客さんが入れない空間だったので、全てのお客さんの表情が、すぐそこにあった。
2012年9月:定員25名!! の富士宮公演@芸術空間あおき
上越高田(新潟)の高田世界館には、まさかのコウモリが住んでいて、リハーサル中は飛び回っていたコウモリが、本番が始まると一度も現れず、とても空気の読めるコウモリだった。
2012年11月:場内にコウモリが飛んでいた新潟公演@高田世界館
熊本公演の実行委員長は工務店のオッサンで、この舞台を地元の人たちに見てもらいたいと言って一人で動き始め、8ヶ月後にはたくさんの人の輪が出来て、市内から離れた便利な場所ではない劇場に、400人以上のお客さんが足を運んで全公演満席という奇跡を見せてくれた。
2013年3月:工務店の社長が起こした八代の奇跡、熊本公演@日奈久ゆめ倉庫
まだまだ書ききれないが、全ての公演で、町の風景や関わってくれた人の記憶が強く残っているし、それは記録としても残っている。本当に、いろんな条件、いろんな劇場で公演させてもらったと改めて思う。
この【イシノマキにいた時間】は、関わってくれたスタッフはもちろん、これまで見てくれた人たちに育ててもらった舞台で、伝えるというバトンが繋がれた3年半だと思う。『あの頃の石巻』を知ってもらい、少しづつ変わっている『今とこれからの石巻』を感じてもらっていた。
紀伊國屋公演が終わってからも、やっぱりバトンを繋ごうという人たちが現れてくれている。これまでの3年半に【イシノマキにいた時間】という舞台が伝えてきた事は、もちろん『あの頃の石巻』なのだが、その少し前を走っていたのは、伝えたいという『ダレカの想い』だった気がする。これからは3年半伝えてきた『あの頃の自分』も振り返りながら、『今とこれからの自分』が伝える想いも一緒に感じてもらわなければいけないと思っている。【イシノマキにいた時間】という公演で舞台に立ち、お客さんに見てもらう事で感じるウレシイではなく、この舞台に関わってくれている人たちの輪が広がっている事は、間違いなくウレシイ。