鹿児島公演 シゲさんレポート

2014年4月22日

毎回、公演ごとに台本を開いて考え、いつも、あの日に戻って同じキモチで伝えられるように、少しづつ伝え方を変えてきた。震災から3年が過ぎ、改めて台本と向き合い、今回は今まで以上に変える事を試みた。

2012年末の東京3度目の再演頃から、公演の最後に『あの頃の石巻』を知ってもらうことで『今の石巻』を感じてもらいたいと言ってきた。震災から4年目になり、もうひとつ大切なのは『これからの石巻』を想像してもらう事なんじゃないかと感じる。

震災のコト、被災地のコトを『忘れない』というのは、もちろん大切なのだと思うが、もっと大切なコトは『知る』ということだと感じた。今までのセリフでは『人は忘れる。それは仕方がないことだと思う。だから、忘れないためには伝えなきゃいけない。』と言ってきた。今回の鹿児島公演から、今までのセリフに『伝えるためには、知らなきゃいけない。忘れないためには、自分から知らなきゃいけない。』と、足すことにした。

今まで以上に変更した芝居の前半部分では、もちろん伝えたいことが変わったわけではないので、セリフは大きく変わってないのだが、3人の動きや伝えるニュアンスが大きく変わった。ただ、今までのセリフがカラダに入りすぎてるために、相当タイヘンな稽古場になったし、正直、今までで一番稽古したような気がする。

そして迎えた鹿児島公演本番では、これまでにない汗をかいた。それ以上に、前でセリフを言ってるヨッサンを見たら、僕以上に尋常じゃない汗をかいていた。田口くんは、変わらず汗をかいている。

2012年6月。初めての石巻公演に続いて、2012年7月28日に、全国に向かう公演として歩きはじめたのが鹿児島公演だった。吉俣さんが、東京での公演を見に来て下さった日に『鹿児島で、この公演やろう』と言い、次の日には鹿児島のテレビ局やイベント関係者、ただの後輩など、たくさんの人に電話でムチャブリ、いや、的確な指令を出して、ホントに大きな旗を振って下さった。それが、今回の鹿児島公演に繋がり、これからも繋がっていくと感じている。もうひとつうれしかったのが、これまで全国で、オッサン2人とポッチャリ1人しか出ない舞台を見に来ていただいたお客さんが、この日に累計1万人を越えた。全国14ヶ所で公演してきた舞台は、会場の大きさが、すべて違っていた、それも、相当な違いだった。富士宮公演の会場『芸術空間あおき』では、お客さんのキャパ25人、舞台の広さは畳4枚分だったり、今回の『県民ホール』は、キャパ600人、舞台の広さ、日生劇場並み?だったりした。

今回の鹿児島公演に限らず、各地での終演後のアンケートには

『友人から連絡があって、この舞台だけは見て欲しい。と言われたので』

『娘に言われて見に来ました。』

『Twitterで好きなアーティストが呟いていたので』などの声が多数寄せられていた。

この舞台が、たくさんの人の応援と後方支援で大きく育ててもらってきた事に、ただただ感謝の気持ちで一杯だ。

本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 

今回、公演時間などの問題もあって、今までとエンディングが変わっている。これまでは、3人の舞台が終わって、吉俣さんがオリジナルで書き下ろして下さった『添歩み(そゆみ)』にのせて、舞台で伝えてきた『あの頃の石巻』をスライドで見てもらい、その後に『今の石巻』を伝えるために、牡蠣や仮面ショッカーが舞台に登場してきた。

しかし、今回は、『添歩み』の後に、吉俣さん作曲、NHKの大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』で流れる曲『音涯(ねがい)』にのせて、写真家・鈴木省一くんが、2013年から撮り続けてる『いしのまきのあさ』のスライドで『日々変わりゆく今の石巻』を見て、感じてもらった。

今までの、終わり方とは、かなり意味合いも違ったが、見終わった時に感じ、持ち帰ってもらいたい事も、震災から3年が経って確実に変わっている。

 

   鹿児島青年会議所のみなさんと
鹿児島青年会議所のみなさんと
何を伝えるべきなのかが、日々変わっていく中で、自分たちが伝えていることが全てだとは思わないし、間違いなく正しく伝えられているとも思わない。だから、なるべくたくさんのことを、その時感じていることを、そのまま伝えたいと思う。

今回の主催、鹿児島青年会議所のみなさんの熱い思いと、ネットワークに支えられた鹿児島公演だった。このネットワークが、また大きく広がっていって欲しいと思う。それは、舞台【イシノマキにいた時間】が広がるためではなく、この先、いつか必ず起こってしまう大きな災害に備えたネットワークの広がりであって欲しいと思う。

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